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望郷ライン・センチュリーライド始末記 vol2

 

初参加

 

私が初めて望郷ライン・センチュリーライドに参加した時、

第1ステージの最高到達点に至る登り坂に圧倒された。

赤城山の中腹、標高950mまで一気に登るのだ。

足が疲労して、心拍数は最大に上がり、息が苦しい。

往路も大変だが復路も又この最高到達点の峠を越えなければゴール出来ない。

この復路で私は始めて自分の足が自分の体では無いと思える程の痙攣を経験した。

そしてこの酷く苦しい状況の中で時々木立の間から見える沼田の町を見たのだ。

そこには幼少期に友達と自転車で遊びに出かけた野山が見えた。

「あんなに小さな町だったっけ・・・?

 自分が大人になったので町が小さく見えるのか・・・?

 あの頃は、この町が世界の全てだったな・・・。」

そう考えていると沼田を離れていた間に母が他界したことを思い出した。

私が一日中泥んこになって遊んで帰っても全て母が面倒見てくれた。

今にして思えばありがたいことだ。

いつの間にか母が他界した歳に自分の歳も近づいていた。

「後数年で自分の命が無くなるとしたら・・・。母は何を思っていただろう?」

親孝行、したい時に親は無し。

まさにその通りだった。

生前、母は私に

「勉強が出来なくても、偉くならなくても良いから、人の為に役立つ人になりなさい。」

と言っていた。

その母が居ない今、私が母の為に出来る事は母の言葉通りの人になる事だろう。

「私を愛し育ててくれた沼田の為に何かしなければ・・・。」

しかし、大学進学と同時に沼田を離れていた私は既に50歳を過ぎ

初老と言われる歳になっていた。

まるで自分が浦島太郎の様に思えた。

「自分は何者だったのだろう?

 子供の頃に見ていた夢は何処へ行ってしまったのだろう?」

今は目の前に立ちはだかる望郷ラインの坂が思う様に登れない。

苦しみ、もがいても後ろから来る人に追い越されてしまう。

それはロードレースの練習が足りず自分の力不足である事は言うまでも無く、

勉強も不十分なまま都会で働いている自分の実力の無さと同じだった。

根拠の無い自信に後押しされ、

都会の雑踏の中でもがいて来たこれまでの人生そのものだ。

痙攣する足でペダルを回しながら郷愁の想いと自分の不甲斐無さに涙が出た。

 

翌年(2013年)の望郷ライン・センチュリーライドに参加した時、

往路の南郷の曲り屋で万代氏に遭遇した。

万代氏は沼田中学校の同級生で、学校では常にトップクラスの学力だった。

大学卒業後は東京のIT企業に就職し、取締役になり、独立して起業、

現在はAPEC(アジア太平洋経済協力)に参加しているエリートだ。

この年、万代氏が望郷ライン・センチュリーライドに出る事は知っていたが、

それぞれ別のカテゴリだったので一緒になる事はないと思っていた。

「おぉ!万代君!」

「おぉ!金井君!」

その笑顔には深い年輪があり、これまで重ねた沢山の経験を物語っていたが

幼い頃に見た笑顔は変わってなかった。

それはまるで戦場で同級生に会えた様な感じだった。(戦場に出た事は無いが・・・)

私も同様に進学と同時に沼田を離れ、IT業界に入り、独立して家族を持ち生き抜いて来た。

何が出来る訳では無いが、同じ苦しい状況の中で同じ故郷の同級生に会い

健闘を称え合うと不思議な勇気が沸いて来て本当に心強かった。

 

その年の12月7日、万代氏と佐藤氏から

元ライブドア社長の平松氏(堀江モンの後を継いだ人)が主催する

利根沼田を活性化するプロジェクト「Northern Gunma」に呼ばれた。

そこに参加していたのは現在沼田の市議会議員をしている林氏をはじめとする

沼人会のメンバーや若手の有力者だった。

そして万代、佐藤、板橋(企業診断士)、関谷(IT会社社長)の同級生が居た。

会議では色々な意見が出たが私は気の利いた発言は出来なかった。

この時は未だ私も現役の格闘家としてブラジリアン柔術の全日本選手権大会を戦っていて

膝に深刻な問題を抱えていたので自分のことで精一杯だったのだ。

沼田の為に何かしたい・・・。

しかし、現実的に何が出来るのか解らないまま東京に戻り、また多忙な日常に埋没した。

そして年末のジングルベルと雑踏に掻き消される様に

沼田への思いも望郷の胸中に消えて行ってしまった。

翌年(2014年)の春、佐藤氏から電話が来た。

「依頼したい事がある。」との事で私達は中野サンプラザ1Fの喫茶店で待ち合わせた。

佐藤氏は明治大学を卒業後、高崎のIT企業に就職し、東京で活躍していた。

親同士が同じ東武バスの社員だった為、生後数ヶ月の時から家族ぐるみの付き合いで、子供の頃は本当に良く一緒に遊んだのだが、お互いに違う高校に入り方向性も異なり、大人になるにつれ疎遠になっていた。

しかし、子供の頃に繋いだ絆は固く、気心は知れていたので会えば直ぐに何を考えているのか解った。

「たかちゃん。沼田にIT企業を作ろうと思うんだけどさぁ。手伝ってくんねぇ?」

「ありがとう。その言葉を待ってたよ。」

詳しい状況を聞くまでもなく承諾した。

昨年末のNorthern Gunmaで抱いた思いは一緒だったのだ。

私は嬉しかった。

「また、一緒に遊べる!」そんな童心が甦って来た。

 

同年10月、地元で頑張っている若者(小林氏)を社長に

Northern Gunmaで一緒だった同級生と

Numata NEXT Excellent Technologies株式会社(以下、Numata NEXT)を立ち上げた。

そして最初に手掛けた仕事が「上州沼田とんかつ街道」だ。

この時の創立メンバーは小林社長、万代、佐藤、板橋、関谷、小林(父)、そして私の7人。

勝手な妄想だが私はこの7人を「危機に瀕した沼田を救う”7人の侍”」だと思った。

となれば頭の良い島田勘兵衛(演:志村喬)は万代氏、

抜群のセンスで戦う主人公(?)の菊千代(演:三船敏郎)は佐藤氏、

私は「戦に何か高く翻げるものがないと寂しい」と旗を作った林田平八(演:千秋実)か?

そんなに冷静では無いので最初に戦死する五郎兵衛・・・?

いや、もし私が黒澤明監督だったら「私と言う特別な役」を作りたい。

そしてその特別な役を全力で演じてみたい。

誰にも真似の出来ない俺達の7人の侍だ!

頭の中で映画「7人の侍」のテーマソングが流れた。

 

◆話は前後するが2014年5月(GW)私は意を決して膝の手術に臨んだ。

激しいトレーニングで右膝軟骨の約50%を損傷してしまった為、

手術して切除しなければならなかったのだ。

それは格闘技との決別を意味していた。

しかし、中野総合病院の整形外科医ドクター北浜氏の

「未だ可能性が残されているから今やってしまおう。」と言った言葉を信じたのだ。

ドクター北浜は有名なスポーツドクターで普通なら予約すら困難な医師だったが

ありがたい事に知人の紹介で診てもらう事が出来た。

お陰で手術の結果は良好だった。

手術から約3ヶ月後の8月には第4回望郷ライン・センチュリーライドに万代氏と参加し、完走出来た。

そして10月、7人の侍達とNumata NEXTを設立。

翌年(2015年)私はクライアントの新しい商品の開発を担当し、販売促進も手伝うことになった。

そこで販売促進の企画と言う口実でスポンサーのロゴ入りのロードレース用ジャージを作ることにした。

ジャージにはNumata NEXTと、とんかつ街道のロゴも入れ、両肩には沼田市のマークを入れた。

メインスポンサーがどれなのか解らない配置だが・・・

クライアントがロードレースに無関心だったので問題にはならなかった。

「このジャージを着て第5回望郷ライン・センチュリーライドに参加する!」と宣言すると

万代氏、佐藤氏、小林社長、板橋氏が賛同してくれて5名のチームが結成された。

一人で参加していた望郷ライン・センチュリーライドを仲間5人で一緒に走れると思うと心強く、嬉しかった。

そして、とんかつ街道の定例会で発表した時、揚げ上げ隊の皆さんが喜んでくれた事が何よりも嬉しかった。

揚げ上げ隊とNumata NEXTが一体となって盛り上がる気運を感じたのだ。

この盛り上がる気運が沼田の原動力になると確信した。

かくして「Numata NEXTとんかつ街道チーム」が結成され

第5回望郷ライン・センチュリーライドに臨むことになった。



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